2015年9月4日金曜日

北岳バットレス <星空のビバーク>



先ほどからずっと、ハングの前で行きつ戻りつしている。
リードをし続けて3ピッチ目。おそらくこれが最後の核心だろう。


袖の中に冷たい水が流れ込むのを感じるが、体勢を変えることができない。
今夜のビバークは寒そうだ。





ナッツを取り出し、ヘッドランプに照らされた黒い岩に差し込む。
拍子抜けするくらいするっと抜けてしまう。


・・畜生!




感覚がなくなりそうな指に今一度力を入れ、甘い外傾カチを握りこむ。
腕はもうずっとパンプの危険信号を出しているが、いま落ちるわけにはいかない。

1サイズ大きなナッツを出し、そっとかませる。

効いてくれ、効いてくれよ。頼む・・。

呼吸を止めロープにクリップ。
ぜえぜえと、肩で荒い息をつく。


振り返ると、寒そうな様子でじっと待っているパートナーのヘッドランプが見える。

いつまでもここにいるわけにはいかない。




苔が生えたスタンスに再び足を置く。
いかにも滑りそうだが、他にスタンスはないように見える。
小さな迷いを封じ込め、レイバック気味に体を起こす。


不意に足の加重が抜ける。
一瞬、薄明かりに浮かぶ岩が目の前で回転したように見えた。


!!





墜ちた!

ヘッドランプに照らされる黒い岩肌が、流星のような筋を引いて上に流れる。嫌な浮遊感。


両手両足を岩に擦り付ける。
止まれ!止まってくれ!



永遠に思える恐怖の時間が終わる。

早鐘のような心臓の音が耳の奥に聞こえる。
ッツが効いてくれていた。


どうやら左膝と足首が痛いが、ただの打ち身のようだ。
関節は普通に動いている。


最後の最後に完登を逃してしまってパートナーに申し訳ないという気持ちと、気づかないうちにとんでもないリスクを取ってしまっていた、という動揺が混じる。

ここで怪我をすることは許されないことはわかっていたはずなのに。
やっぱり下でビバークしたほうがよかったかもしれない、などと考える。





レストを挟み、先ほどのハングへ戻る。
冷静にムーヴを組み立てなおすと、すぐに終了点だった。

最後の易しいピッチを交代してもらい、四尾根へ合流する。

ハイマツ帯から慎重に懸垂した先は懐かしい大テラス。
平らで大きな地面を、両足でしっかりと踏みしめられる喜びを噛みしめる。






簡素な食事を済ませ、寝転がる。

美しい星空を半分ばかり隠している黒々としたシルエット。
明日はこの上に立つんだな。

流星が白い筋を引いて視界を横切る。今日の登攀についてぼんやりと考える。
巨大な山のふところに抱かれている安心感が、緊張を少しずつほぐしていく。



ツェルトを吹き抜ける風に震えながら、まぶたを閉じた。

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