今日は純粋に個人的なひとりごと。
数少ない読んでくれている人にも、全く関係がないハナシなので迷ったけれど、祖母の記録をどこかに残しておきたくて書き留めておきます。山のトピックといえばそうなので。
クライミングとは全然関係ないので、心置きなくスルーしてくださいな。
------------------
正月も欠かさず、毎朝登山をしていた神戸のばあちゃんの話。
阪神御影の路地裏にあった古くて狭い長屋は、20年前の大震災で全壊しましたが、その時は幸運なことに山中だったようです。石像が倒壊したりして、ずいぶんと怖い思いをしたと言っていました。
あの時はどんな感じやったんかなあ。
ずっと気にかかっていました。
ついに決心して、仕事の予定を無理やり合わせて神戸入り。
地図・コンパスなし、登山届なし、ヘッドライトなし。
足元はスニーカーという無計画登山。
手がかりと言えるものは・・祖母がよく口にしていた「いちのうさん」という名前だけ。
とりあえずiPhoneで検索すると、六甲山の山すそ、住宅街の外れにある標高100mくらいの小高い場所を「一王山」と呼ぶことがわかった。
ここにあるお寺に毎朝登ることを目的とした会が、いくつかあるようだ。
翌朝5時。
特別臨時列車に飛び乗り、慰霊祭へ向かう人達に混じってJR住吉駅に出る。
そこからは徒歩で御影方面を経由して、小走り気味に坂を上る。
一王山に向かうには、いくつかルートがある。
この時期の朝は暗くて怖い。
やっぱり、遠まわりでも車の多い国道沿いを通っていたんちゃうかな。
いや、負けず嫌いやったから、人より早く着くために最短距離で行ってたかもなあ。
気象庁の記録によると1995年1月17日5時の神戸は、気温3度、北よりの風2m。
今日は5度くらい、微風、コンディション的には少しましなくらいか。
それでも軽装だと足指が感覚を失ってくるくらいには寒い。
ルート後半の石屋川沿いに差し掛かると、名物の冷たい六甲おろしが吹き抜け、いっそう体感温度が下がる。
お年寄りにはキツいな。
毎朝4時には起きて、カイロを貼ったり服を着込んだり、準備をしていたんかな。
薄暗い中で起き出して、いそいそと準備するばあちゃんの姿が思い浮かぶ。
石屋川から離れ路地が少しずつ狭くなる。
お寺の門前についたようだ。
真っ暗な足元に気をつけながら、短い石段を登る。
ばあちゃん、懐中電灯は持ってたんやろか。
重くて面倒やから、持たへんかったかもしれんなあ。
震災発生時は石段の途中にいたようで、手すりにしがみついて烈震をこらえたという。
ゴロゴロと石が落ちてきたと繰り返し話していた。
ここは、ちょうど左手上部が古い墓地になっていて、巨大な落石に見舞われたとしても不思議ではない。少々のことじゃ驚かないばあちゃんやったけど、怖かったんちゃうかなあ。
境内はまだほとんど無人。
ばあちゃんのことやから、誰よりも早く到着していたんかな。
5時46分。黙祷 -
受付にいらっしゃった会長さんとお話させていただく。
2万回を超える人がぶっちぎりの1位。後ろには1万回台がずっと続く。
ばあちゃんは何回くらい登っていたのかな。
徐々に集まってくる人たちは、登山記録となるスタンプをもらい、知った顔同士でおしゃべりを楽しんでいるようだ。今日はどうしても亡くなった人の話になり、少ししんみりとした空気。
6:30になると、定例らしい体操が始まる。
朝からやるには結構強度が高く、筋を違えそう!
幾人かの方が、「ツバキさんのお孫さんが来てるよ」と触れまわってくださり、嬉しいことに、20年前を知る人たちにいろいろとお話を伺うことができました。
歩くのがずいぶん速い名物ばあちゃんだったらしく、私たちの目標やったのよ、と言われてちょっと誇らしくなったり。たしかに、70歳くらいでスキーに挑戦していたり、とんでもなくエネルギッシュなばあちゃんでした。
景色が特別いいわけでもない、六甲山主脈でもない、ほとんど丘のような里山。こんな仲間と毎朝話すのが生きがいやったんやなあ。
何千回目だかの記念に神戸市からもらった表彰状を、「どや、スゴイやろ!」と何度も見せられたけど、ようやくその価値がすこしわかった気がするよ。あの時はテキトーに笑っていてゴメン。大切なあの賞状も、倒れた家屋からは出せなかったような気がするわ。
親戚はみんな山に詳しくなかったから、ばあちゃんにとっての記録がどんな意味を持つかも、それほど深く考えることはなかっただろう。
もう山に登られへんとわかった時はどんな気持ちやったんやろな。
祖母がおしゃべりをしながら仲間とあるいたであろう帰路を、てくてく歩く。
気象庁が調査した震度7の帯は、ざっくりこんな感じでルート上にかぶっている。
基準は倒壊率30%らしい。特に東灘区は、兵庫県の全死者の25%が集中した場所。阪神高速が倒れた深江地区もこのエリアにある。
祖母の帰った先には、変わり果てた街があっただろう。
この一帯は、ガスタンクの爆発が懸念されたことで、大規模な避難指示が出たと記憶している。へしゃげた家を見た祖母は、着のみ着のままで再び本山の小中学校まで避難したことだろう。
朝から暖かい格好をしていたのは不幸中の幸いやったな。
そもそも家にいたら助からなかっただろうから、日課の山登りのおかげで命拾いしたようなものだろうか。
同じ道をたどることで、20年間知りたかったことに、少しだけ触れることができたような気がする。あのとき感じていたことや、大切にしていたもの。
きっと神戸にも東北にも、同じように大切な思い出や、大切な人を失った人がたくさんいるんだろうと、その重さに、あらためて思いをはせました。
ばあちゃんの墓がある高台の上からは、大好きだった六甲山が見渡せました。
やすらかに眠れ、ばあちゃん。
(追記)
後日、一王山登山会のMさんからご連絡をいただきました。
断片的に残されている過去の資料を探し出し、祖母に関する記録を調べてくださったそうです。
ご厚意に御礼を申し上げます。
大変ありがとうございました。
祖母、椿一枝の登山記録。
昭和55年頃登山開始 累年登山回数
昭和59年4月30日 1297 昭和59年会員名簿による
昭和62年8月31日 2509 40周年記念誌による
平成 6年 5000回表彰
平成 7年9月 1日 5390 以降記録台帳による
平成 8年1月 1日(H7/12/31) 5443
平成 8年9月 1日 5558
平成 9年1月 (H8/12/31) 5593(最終記録)
昭和59年から62年の記録の間は、ほぼ皆勤(1212日/1218日)。年平均で2日しか欠かしていない。たしかに正月も登っていたようなことを聞いていたのだけど、これは本当のようだ。
このレートで登り続けたとしたら、5000回達成はおそらく平成6年の6月末〜7月の間だっただろう。ここで表彰されたり、特別に掲示板に名前が出たりしたことを嬉しそうに語っていた。
地震のあった平成7年1月17日時点での登山日数は、最大に見積もって5205回(2509回+2696日)となる。となると、地震のあった日からその年の9月1日までの登山回数は、少なくとも185回/227日。
避難先の親戚の家でも週6日程度は、登山は続けていたようだ。
毎朝4時に起き出すとなると、おじさんファミリーは嫌がりそうだけど、ばあちゃんを止めることはできなかったのだろう(笑)
震災後しばらくは、ほとんど街灯も信号もなく、道も倒壊家屋や垂れ下がる電線などで塞がってしまって、山に登れるような状況じゃなかったと思われる。もしかすると1ヶ月ほど休んだ後は、再び皆勤ペースだったのかもしれない。
完全に仮定の話だが、震災以後も皆勤で登山を続けられていたら、平成20−21年(2008−2009)くらいには1万回の大台に達した可能性もありそうだ。まあ90歳を超えてもペースを落とさず登れていたら、という想定だが。
平成7年9月を過ぎると、祖母は徐々にペースを落としていく。
平成7年9月〜12月: 53回/122日
平成8年1月〜8月 : 115回/244日
平成8年9月〜12月: 35回/122日
おそらく親戚の家を転居したりしたようなので、地理的な問題もあったのだろうか。
晩年は体調も落としがちだったように思う。
最終記録からほどなくして、平成9年6月9日に他界。
一王山に登山していた期間は18年間、生涯登山数5593回でした。
※タイトルは服部文祥さんの著書から拝借しました。
10年、20年、それ以上の時を超えて、その人と同じ空間を共有できるひとつの方法が登山だと思います。良いお話をありがとうございました。
返信削除海坊主さん、駄文に目を通してくださってありがとうございます。
削除そうですね。いつも山を登攀対象としてしか見ていませんでしたが、昔の人の体験をたどる山旅もいいものですね。服部さんの本じゃないですが、100年以上前に失われた山路をたどる旅も面白いかもしれないなと感じました。
何回読んでも良い話ですね。こんなふうに年を取れたら良いなあと思います。
返信削除東京だと高尾山くらいの感じでしょうか。
cherroさん、何度も読んでいただいてありがとうございます。
削除たしかに、こうやって好きなことに打ち込んで、仲間に愛されて年をとれたらいいですね!高尾山よりももっとずっと低い、市民の森のような場所です。城ヶ崎でいうとフナムシロックから富戸駅までが標高差100m、あと40mくらい高いくらいでしょうか。海岸沿いからひたすらなだらかな坂道を歩いていく感じでした。